yurian_world’s diary

過去の話とインドネシアの話がちらちら顔を出しています。

周りの人たちの尊さ

中学生までは、美術もチアも、自分が好きで得意なことだけを極めてきた。それぞれ、部長をさせてもらったり、センターで踊れたりで、いつも中心にいられた。

それらのコミュニティでは、みんなが集まってきてくれて居心地が良かった。

 

そんなふうに自分を過大評価していた頃の私にはきっと、

『縁の下の力持ち』

という言葉が何よりも嫌いだったんじゃないかなと思う。

 

だけどチェロをはじめてわかったんだ。

みんなでつくるものって、支えとなる土台的存在がいないと目立たせるものも目立たせられないなと。

 

その時はじめて、あの時自分が輝けていたのは周りのみんながそばにいて支えてくれていたからだったんだと気づいた。

口先だけでお礼を言ってきたけど、この時はじめてお世話になった周りの人や運営をサポートしてくれていた人にまで感謝の気持ちが芽生えたと思った。

 

いろんな立場、いろんな視点から見てみることが大事なんだなあとつくづく思ったり。

 

気づいた時で大丈夫だから、その時に精一杯心からの感謝を伝えたいとも思う。

 

りあんわーるどでした。

2020.6.26

 

今が未来を作っていると思う理由

頭の中で図になってて、覚えておきたいってその時は強く思うんだ。
それを文章にするのが本当に下手だけど、記憶力もないから、せめて今日あったことくらいは日記に書いていこうとか思ったりしている。

人は過去でできている

人生の先輩として尊敬している人が言っていた。
その言葉にいろんな意味が込められていると思う


今日電話で一緒にアジアを旅した友達と話してたんだけど、
経験をどう繋げるかって大事なんだよね

過去に囚われないでいたいとも思うけど
無駄にもしたくない

でも私たちのあの経験は、就活とかそんな目先のことじゃなくて、私たちを作る一部になって、これからの自分たちの武器になる経験だったんだよ。
直接繋がらないと、不安になるかもしれないけど、無駄だった経験って、ないと思うから。
どんな経験も、それによって受け止めている今のその感情を、これからにどう活かすかが重要なんだと思う。
つまり、どんな過去も、今の選択で未来の自分を作っていくことができるんじゃないかな。

大学3年生になったばかりの私はそんなことを考えています。
未来の自分、どう?あってるかな?

 

りあんの呟きでした。

2020.6.26

なんでもいい

 

どっちがいい?

うーん、なんでもいいよ。

 

って会話よくあるよね

口調によって良く聞こえやすいか悪く聞こえやすいかはあると思うが、

言っている本人は気づかなくてもマイナスの意味合いで捉えられてしまうことの方が多いように感じる。

 

実際、私も良く言う。

口癖のようになんでもいいよと言ってしまう。

 

が、枕詞をつけるようにしている

(枕詞って特定の言葉が入るときに文頭につけられるやつだったっけ?だから少し違うかもだけど。)

 

良い意味で、どっちでもいいよ!

 

ってめっちゃいい。

だからといって本当にそう思っているときにしか使わないですよ。

だから怖がらないでください。。。

 

 

少し話が逸れましたが。

本題に戻すと、どっちでもいいよと言いがちなのは相手が本当は嫌だったらどうしようとか考えるから。

 

距離感が難しいところではある。

 

こだわりがないなら言ってもいい言葉だけど、こだわりがあることならこっちがいいとはっきりとまでは言えなくても、やんわりは言ったほうがいい。

後々揉めないで済むし、揉めない方法を無意識に考えてしまっているのかもしれない。

どっちでもいいよって言ったことには、文句言わないようにしてるし、冷静に考えれば文句言える立場じゃないことくらいはわかるはず。

自分も含めて、自分の発言に責任を持つってこういうことも言うんじゃないかなと思ったりする。

 

いい言葉、楽な言葉ほど、後で痛い思いをするような、しないような。

 

考えすぎと言われるけど、私にはそれくらいが丁度いいんです。

 

 

 

結論らしい結論は特にありません、

りあんの心の奥底の呟きでした。

 

 

2020.06.26

 

 

こんな事例に名前をつけたい、が

こんな事例に名前がついていないのかなと思う時ないですか?

 

なんなら、ネタだろうけど、

ツイッターでよく○○○で☆☆☆だったっていう事例に名前を付けたい

的なことをたまに見かけることがある。

 

ネタだろうけどね、本当にそれに近い言葉はないかな?なんて数秒くらいは考えることは私はある。

 

 

そういったところで、
ありそうでない(知らない)な〜と思っていたものに名前がついていると知ったとき、少し嬉しくなる。

 

それでもその言葉は、
使ってみたいと思うけど浸透していなさそうだから、あまり通じないかな、と思いためらう。

 

 

 

"ピジン"

資格の用語集にあった。

それでは意味がわからなかったけど、ネットのブログを見ているうちにわかってきた。

 

例えば短期留学した日本人がちょっとカッコつけて無駄にカタカナ英語を多用しながら、一応日本語らしき言葉を話すようなことだとインプットした。

もちろん当時の人はそんな風ではないと思うけれど。

 

ピジンがその地域の共通の言語として使用されるようになったものをクレオールというそうだ。
ピジンクレオールの境界ははっきりしていない様。

 


これはいま、問題視されているのかな?

それとも一つの文化と捉えられるのかな。


国ごとに捉え方は違うだろうしわからないけれど、その土地で話されている言葉が作られてきた背景には、いろんな国と国が接触し合ってきた過去から現在までが存在してこそなのだと気づいたような気がした。

 

2020.06.26

それ、自分に言いたい

いまだからこその教育面でも仕事面でもメリットもデメリットもあると思いますが

工夫次第でいまより便利にすることもできると思ったので、私たちは考えて行動することが大切だと思いました。

 

昨日のゼミのグループ発表で、私が締め括らないといけない空気を感じたので、こう話した。

リーダーとかまじで向いてないから私にやらせないでよって思いながら、やってって言われるとできなくもないか…と思うし断る理由もないので、ついつい引き受けてしまって、いちいち疲れ果てるんだなぁと思う。

 

 

ところで、あんな風に

メリットもデメリットも気づいた上でより良いものや生活を作って行けたらいいですね

って言ったくせに、それ自分に向けて言いたいよと突っ込んでいたりするのだ。

 

HSS型HSPは、生まれ持った気質なので変えようとしても変わらないでしょうとよく断言されている。

それこそ、よく知った上でどう工夫すればより良くなるのかということに繋がってくる。

 

なかなか難しいけれど、まずは自分のネガティブなところや嫌いなところを理解して受け入れて好きになることが大切。

短所を知っておくことで対策はできる。

少し辛くても自己分析をしてみよう。

2020.06.26

パターン

結局言いたいことっていつも割と同じ。

ブログを書いていると自分もそう思うようになった。

 

中身は違うし、視点というか目線というか?も違うけど、やっぱり結論が一緒。

思考がパターン化している。

このことに気づけてよかったんだけど、いつも同じような考え方ばかりで、自分の視野の狭さを痛感して、自分の考えが限られすぎていてつまらなくなってきている。

 

 

視野を広げないと。

 

まぁそう思うのもいつもなんだけどね。

 

いつも多い結論として、

・視野を広げたい→手段の一つとして早く旅行したい

・周りの人や世界にいつもありがとう

・過去の辛かったことを引っ張り出して自己分析→HSS型HSPなんだと自覚→そうであることを認めると全てつながる、辻褄が合う

・ひっそり苦手に思っていた大人を対象に反面教師

 

と、いったところでしょうか。

 

考えることは大切って気づけているけれど、いつも同じことを考えていてはあんまり前に進んでいない気がする。

そんなときに新しい視点をくれる人がいる。そんな人が私の目には魅力的に映っています。

 

 

たくさんの刺激を。

それで疲れたら、また休めばいいだけだから。

 

 

りあんわーるどすぎて笑ってしまう。

なんで覚えているの

生きてきた時間を振り返って、
少なくとも自分は、
覚えていることの方が少ないのに、
なんでこの記憶はまだ覚えているんだろうって思うものが多すぎるよ。
特に意味はないんだろうけど、一つのイベント2、3枚のペースで画像特定だったりエピソードが入っているような感じ。

そんなに絞らないでと思うけど、早く忘れてよとも思う。

 

とこの間呟いたんだけど、今日はそう思った中のうちの一つの話をしようと思います。

 

 

小学四年生のときに今の家に引っ越して来たので、転校生として新しい小学校に入った。

前のところでの人間関係はぐちゃぐちゃだったので、これからリスタートしようと張り切っていたこともあってか、少し自分を偽りつつも気を使えば人間関係がうまくいくことに気付いて、毎日を楽しむことができるようになった。

 

今思えばこれもHSPを感じるなぁと思う。

 

まあそれは置いておいて、

新しい小学校の、クラスメートの一人の男の子がいつも授業中に机の上で堂々とおりがみをしていた。担任の先生はベテランで温厚な女性の先生で、その先生によく注意をされていた。

その子(と言っても同い年だが)は図工の時間に私が細かい絵を描いていたら、

「すごーい!デリケートだね!」

と言ってきた。

近くにいた担任の先生は、「そうだね。」とだけ言って穏やかに微笑んでいたけれど、当時の私はデリケートという言葉を知らなかったので、意味がわからなかった。(いま考えると少し使い方が違う気もするが…)

なんとなく、無知は恥的な考えを植え付けていたようで、笑ってごまかす癖があった。

癖というくらいなので、こんなことは自分にとってよくある話だった。

それなのにどうして覚えているんだろう。

それは、いつも勉強をしていないイメージのそのクラスメートの男の子が、なんでそんな難しそうな言葉を知っているんだろうと疑問というか、失礼ながら違和感を覚えたからかもしれない。

 

私はその時、大きな楠と校舎の絵を描いていたので、爽やかな初夏の空に少し強い風が吹いていたのをよく覚えている。

 

何が言いたいかって、

この記憶の意味は、

担任の先生は全て悟っているような寛容さがあることに子供ながらに感じていたということ、

クラスメートの男の子は実はすごい子なんじゃないかなと思ったこと、

やっぱり自分はパワーワード以外はほとんど映像や空気感で記憶していること

そんなところかとふと思った。

 

まぁ、記憶に一々意味なんてないのかもしれないけれど。

この記憶だって、意味は後付けのような気もする。

なんで覚えているのかは考えても仕方ないのかもしれない。

 

 

 

私が周りの人に記憶の仕方を尋ねると、因果関係で覚えているかもとか言葉で覚えているという人がいたけれど、私はそのどちらもこんがらがってしまうため、そうして覚えることはできないから、やっぱり記憶って人による。だからこそ面白いなと思う。

 

 

なんとなくだけど、あの時の男の子、今頃活躍しているような気がする、知る由もないけれど。

 

 

 

 

はい。結論や思考パターンはいつも同じようですが、今回もありがとうございました。

 

 

りあんわーるどでした。