生きてきた時間を振り返って、
少なくとも自分は、
覚えていることの方が少ないのに、
なんでこの記憶はまだ覚えているんだろうって思うものが多すぎるよ。
特に意味はないんだろうけど、一つのイベント2、3枚のペースで画像特定だったりエピソードが入っているような感じ。
そんなに絞らないでと思うけど、早く忘れてよとも思う。
とこの間呟いたんだけど、今日はそう思った中のうちの一つの話をしようと思います。
小学四年生のときに今の家に引っ越して来たので、転校生として新しい小学校に入った。
前のところでの人間関係はぐちゃぐちゃだったので、これからリスタートしようと張り切っていたこともあってか、少し自分を偽りつつも気を使えば人間関係がうまくいくことに気付いて、毎日を楽しむことができるようになった。
今思えばこれもHSPを感じるなぁと思う。
まあそれは置いておいて、
新しい小学校の、クラスメートの一人の男の子がいつも授業中に机の上で堂々とおりがみをしていた。担任の先生はベテランで温厚な女性の先生で、その先生によく注意をされていた。
その子(と言っても同い年だが)は図工の時間に私が細かい絵を描いていたら、
「すごーい!デリケートだね!」
と言ってきた。
近くにいた担任の先生は、「そうだね。」とだけ言って穏やかに微笑んでいたけれど、当時の私はデリケートという言葉を知らなかったので、意味がわからなかった。(いま考えると少し使い方が違う気もするが…)
なんとなく、無知は恥的な考えを植え付けていたようで、笑ってごまかす癖があった。
癖というくらいなので、こんなことは自分にとってよくある話だった。
それなのにどうして覚えているんだろう。
それは、いつも勉強をしていないイメージのそのクラスメートの男の子が、なんでそんな難しそうな言葉を知っているんだろうと疑問というか、失礼ながら違和感を覚えたからかもしれない。
私はその時、大きな楠と校舎の絵を描いていたので、爽やかな初夏の空に少し強い風が吹いていたのをよく覚えている。
何が言いたいかって、
この記憶の意味は、
担任の先生は全て悟っているような寛容さがあることに子供ながらに感じていたということ、
クラスメートの男の子は実はすごい子なんじゃないかなと思ったこと、
やっぱり自分はパワーワード以外はほとんど映像や空気感で記憶していること
そんなところかとふと思った。
まぁ、記憶に一々意味なんてないのかもしれないけれど。
この記憶だって、意味は後付けのような気もする。
なんで覚えているのかは考えても仕方ないのかもしれない。
私が周りの人に記憶の仕方を尋ねると、因果関係で覚えているかもとか言葉で覚えているという人がいたけれど、私はそのどちらもこんがらがってしまうため、そうして覚えることはできないから、やっぱり記憶って人による。だからこそ面白いなと思う。
なんとなくだけど、あの時の男の子、今頃活躍しているような気がする、知る由もないけれど。
はい。結論や思考パターンはいつも同じようですが、今回もありがとうございました。
ゆりあんわーるどでした。