yurian_world’s diary

過去の話とインドネシアの話がちらちら顔を出しています。

綺麗の裏側

 

この世界、

汚い部分もたくさんあるけれど、

綺麗なものもたくさんある

 

 

綺麗なものってなんでも、

誰かしらの何かしらの努力があってこそできているなあと3年くらい前から思っている

 

綺麗なものだけじゃ絶対に成り立たなくて、その裏側にいろんな人のたくさんの努力が詰まっている。それは私が知る限り、必ずと言っていいほど。

 

人の手で作られた綺麗なものも

自然によって作られた綺麗なものも

その人自身も

 

きっと何かしらの努力があってこそ。

ここで私が言う努力っていうものは、ほとんど見えないし、見えても一部。しかも結果ではなくてあくまでも過程だから、見逃されやすい。

外からも見えないし、いろんな人のいろんなアイデアや頑張りが複雑に絡み合ってやっとできた偶然で奇跡的なものばかりだから、だからこそ、ついついそのものにしか目がいかなくなってしまい、どのなんの努力がどう働いたかはわからないし、そもそも一々そんなことを考える人の方がもしかすると少ないかもしれない。

 

何を言っているんだろう。

私もわからない。

だけど、綺麗なものは必ず人にしろ植物にしろ、誰かがどこかで頑張っているんだと私は思う。

 

 

だから、裏側で起きていることを考えていたい

 

でも今回は、感謝するだけじゃきっとだめなんだ。

 

"努力"の度が過ぎて、生活に支障が出ている人もいるかもしれない。てか実際いる。

 

一人の力では限界があるよ。だけどまずは知ることから。知ったら知らせられる。知らせたら動きたい人が増える。変えたいと思う力が増す。そうすれば、変わらないと諦めかけたものでも変わるかもしれない。

 

(世間知らずで知力低くて焦ってる最中ではあるけれど)

そろそろ知らせる段階に行きたい。

でもでも、その前にもっともっと世界を知りたい。

いいことも悪いことも、綺麗なものも汚いものも、楽しいことも辛いことも。

 

だから私はまた旅がしたい。早くして?

 

 

 

おわり。

りあんわーるど全開になってしまいました。

よくわかりませんね。夜の呟きだよ。許して。

 

“第二外国語”の先生

英語とはまた違って、自分の母国語を教える先生は、その言葉を勉強してくれて嬉しいっていう感情があるのかもしれない。

インドネシア語を楽しそうに嬉しそうに教えてくれたとき、ふとそう思った。


英語が母国語の先生もそうでない先生も含めて、英語を教える先生の気持ちとはまた違うのかなと思った。

 

日本語を教えるのも楽しみだなと思った。
自分の国のことを勉強してくれている人って応援したくなるし嬉しい気持ちになる。

 

 

 

言葉の勉強を通して、言葉以上のものを得るってこういうことなのかもしれない。

 

そういう意味でも世界共通のものって自分が思っている以上に多いかもしれない。

 

 

 

 

りあんの呟きでした。

HSS型HSP気質

HSS型HSP気質ってご存知ですか?

 

私はつい数ヶ月前に知りました。

 

このブログを見てもらっているとわかると思うのですが、私はかなり人と違う思想らしいんです。

いまでこそ、良くも悪くも変で違うことを認めて開き直ってさえいます。

とても矛盾している性格で、本当にいつもあまのじゃくだなと思っています。

 

例えば、

一人で旅行することは好きだし、航空券はすぐに取るのに、前日になって急に臆病になるとか、

学生時代は片思いしていた人に今告らないと告るタイミングなくなるよやばい!と思い勢いで急いで呼び出したはいいものの、あがってしまってしょぼすぎる告白をすることになった(今思えば超自分勝手笑)とか、

 

そんなこと、それぞれ一回じゃないんです。

いや、学習しろよって思うんだけど、それが、本当に無理なんですよね。。。

 

他にも人と違いすぎると思うことも何度もあって、人並みに上手くできないこともあって、言ってしまえばかなり生きづらい。

人に合わせることは比較的得意なので、学生時代は新学期なんかは死ぬほど疲れて休日ぐったり寝込むものの、なんとかしのいでいた。

大学生になってからは、必然的に単独行動が増え、バイトをするようにもなり、自分で決めないといけないことが増え、社会不適合者なのかなと思うことが正直多くなった。

そこで何度もその状態に名前がついていないのかなと思っては診断されたいようなされたくないような気持ちでいたが、周りを見ていてもあまり似ている人はいない気がして、自分の弱い部分は見ないフリをしてきた。

 

 

しかしついに、この謎すぎる性格に性質という意味で名前が付いていることを知りました。

 

 

 

HSS型HSPというものです。

 

HSP(Highly Sensitive Person)とは、簡単に言うととても繊細な人のことで、

HSS(High Sensetion Seeking)は刺激を求める人のことだそうです。

 

HSS型HSPは刺激を求めるのに内向型と言われていて、名前からもとても矛盾している。

 

調べていくと20項目のチェックリストというものがあり、11個以上当てはまればHSS型HSPだと思って良いと書いてあったが、

やってみると18個も当てはまっていて、鳥肌がたった。

え、それ私のことじゃん?って。

 

それだけでは信憑性に欠けると思い、YouTubeを見たりしているうちに、自分と同じ煩わしさを抱えて生きてきていた人が意外と多いことを知った。

 

HSPは5人に1人の割合でいるそうだが、

HSS型HSPは人口の約6%しかいないようなので十分マイノリティな部類に入ると思う。

なにかとマイノリティだという人の話を聞くと、そういう人もいるんだな、とまでしか思わず、どこか人ごとにしてしまっていた部分もあり、自分がどちらなのかも考えたことがなかったため、必然的に自分はマジョリティ側なんだろうとばかり思っていた。

 

しかし、気質を知った瞬間、自分でもわからなくなる謎な思考回路と突然の行動欲、不器用さ、やや躁鬱気質なところなど不思議に思っていた部分全ての辻褄が合ったと思った。

自分の性質に名前がついていることを知って、正直とても喜んでいるし、収集がついた。

同じ気質を持つ人のストレス対処法を動画で見て知ることもできるし、向いていることやオススメのことを教えてくれていたりもする。

全て真似する訳ではなくて、対処する上で参考にしている程度だが、随分と前より生きやすくなった。

 

私の周りには、幸いなことに似たような気質を持つ友人がいる。

彼女たちからこの気質について教えてもらって、もしかしたらあなたもそうじゃない?と言ってもらったりもして、自覚することができた。

 

この気質はマイノリティなのにたまたま私の周りに多いのは、きっと似ている者同士惹かれ合うようにできているんだと思う。

 

 

わたし!この性質らしいんだ!と身近な人に話したとき、

「そんなの誰にでもあるよ。」とか「そんな病気じゃないよ。」と否定されたこともあるが、調べれば調べるほど自分はこの気質に違いないと確信をついているし、この名前を一つのアイデンティティとして持つことで自分を守ることができているし、これからもそういられると思う。

そして、これは気質であって病気ではない。

 

自分をこれだ、と認めることで救われることって結構ある。

 

本当にやりたいこと、本当に考えていることなど、自分の本当の気持ちを素直に認め、素直に従うことによって、より豊かに生きられるような気がしている。

 

 

 

人は人、自分は自分。

そうわかり切って、割り切った上で関われると過干渉せず相手を否定せず、違う部分も認め合える関係になれるんだと思っている。

有難いことに、そんな関係で仲良くできる友達が周りにいてくれて、色んな話ができるので居心地が良くて幸せに思っている。

もちろんそんな風な関係になることができない相手もいるけれど、その時は仕方ないなと開き直り、自分を守っていいよ、と最近特に自分に言い聞かせるようにしている。

 

 

 

 

やっぱり、今回も周りに感謝だなぁ

 

りあんわーるどでした。

アクションを起こす

困ったときほど何かを始めるか何かを辞める

 

 

いつもどこか生きづらさを感じていた私はいつしか気づいたら

そんなふうに動く癖がついてきていた。

 

 

何か変えないとこれからもずっと

ほとんど同じことの繰り返し。

 

誰々が嫌なことを言ってくる、とか

対人関係がぐちゃぐちゃに絡み合って負のループにおちていく、とか

みんなが不満を溜め込んでいる環境、とか

誰かが動かないと何も変わらない。

 

きっと、自分がそれを見て嫌な気持ちになっているんだから、自分がいい気持ちになるように変えないといけない。つまり自分に向かってくる悪意に限らず、周りの心情が豊かになる行動をしよう。

ということだが、戦略を考えることは苦手だし、チームプレーも得意ではないので根回しとかも無理な私には、

正面体当たりの術 に尽きます。

 

 

最初は軽く。でも響いてないと思えば強めて、強めて、それでもだめなら喧嘩腰。

それでもだめだったら、私はそのコミュニティから逃げる。という風にして生きてきたのかもしれない。

 

人は変えられないから自分が変われ。

自分がいる環境を変えろ。

ってよく言うけど、その意味がようやくわかってきた気がするし、本当にそういうことだと思う。

 

 

アクションを起こすということは、

いま!と思った時に起こさないとあっという間に時間だけが過ぎ、どんどんタイミングを逃してしまう。

 

せっかくそれに気付いているいまも、まだまだたくさんタイミングを逃してきているので、見通す力と直感力の並行利用が欠かせないようにも感じている。

 

並行利用できるかどうかはわかりません。

今後、気が向いたら考えます。

 

 

 

気が向いたら…?

…そういえば気分屋と言われました。

今日は落ち着いて見えたようで、

大人の鹿って感じだねって言われました。

いつもは生まれたての子鹿だそうです。

 

自信のなさそうなところが、私と小鹿ちゃんは仲間なのかな。笑

 

 

最後に急に脱線しましたが何が言いたいかというと

不満があれば、影で愚痴を言うんじゃなくて体当たりでもしてその場の総合的な負の感情が減るよう動け!と思ったということだ。

 

なんでこんなこと書いてるかって?

それは今の自分に一番言いたいから、さも誰かに語るかのように自分に言い聞かせていたりするのかもしれないです。

 

それから、あまり大きな声で言ったら嫌われそうなこと書いてしまうけど、

怒っている人とか、不満が多そうな人とかって、多分自分に言いたいんだろうな〜うふふと思いながら実は聞いていることもあるよ😇

だから、自分を含めてもきっとそういう人は一定数いると思っている。

 

 

 

今回もおつきあいくださりありがとうございます。

 

りあんわーるど日記でした。

 

 

 

感謝の言葉

 

感謝の言葉と聞いて、思い浮かぶ言葉はなんですか?

 

 

 

 

日本語を話すなら、

「ありがとう」が浮かぶと思う

 

 

ありがとうの言い換えに近いけれど、

「おかげさまで」や「恐縮です」、「お世話になりました」なども感謝の言葉だと思う。

 

 

 

……と、いくつかあげておきながら、

今回は「ありがとう」について書こうと思います。

 

 

ありがとうに似ている言葉で、「ありがたい」ってどんなときに使いますか?

 

 

忙しくてもご飯を作ってくれるなんて、ありがたいことだなあとか

ありがたいことに、○○のチャンスをいただいたとか、

 

なんとなくありがたいと聞くと、感謝の言葉の中に"有ることが難しい"という意味合いが強く含まれているように感じます。

 

 

漢字では、有難う。と書くように、

日本語の感謝の仕方って、やっぱりいまでも"有ることが難しい程に"、というような意味合いを含んでいる言葉なような気がしました。

 

 

 

 

ところで、

私はぼちぼちインドネシア語を始めました。

 

 

インドネシア語でありがとうは

Terima kashi(テリマ カシ)

と言います。

 

Terimaは受け取る

kasihは愛情

という意味を持つようで

直訳すると、「愛情を受け取りましたよ。」といった意味で、感謝を伝える言葉として使われているようです。

 

 

一つの言葉の語源から見ても、それぞれ国民性が現れているなぁと感じました。

どちらの語源も素晴らしいと思います。

 

 

日本は

"有ることが難しいくらい貴重なことが有って、

感謝です。"といった謙虚さを感じさせ、

 

インドネシア

"愛情の様なお恵みを確かにいただきました。感謝しています。"といった受け取る恩恵に心から喜んでいる表現だといった印象を受けました。

 

 

 

外国語の一例として今回はインドネシア語をあげてみましたが

 

いろんな外国語を知ろうとすると、

その言葉を話す人の国民性や文化なども自然と知ることができておもしろいなあと、よく思うことがあります。

 

言葉や土地によって、感謝の言葉の由来は違うのだろうなと思います。

言葉や文化の数だけ、感謝の伝え方はあると思います。

 

 

それでも共通して言えることは、

どんな言語にも感謝を表す言葉が存在するということ。

 

 

 

ツナミ、イキガイ、エモジ、ヒバクなど、外国語に変換できずに伝わった言葉があるように、

「いただきます」と「ごちそうさま」に代わる言葉が言語によっては持っていないこともあるように、

ある言語にはある言葉が当てはまらないこともしばしばあるように感じます。

(きっと日本語もまた然り、みたいな。)

 

 

それでも私の知る限りでは、感謝を伝える言葉はどの言語も持っている。

 

そんなこと、話す基本だ。コミュニケーションを取る上で当たり前だ。と言ってしまえばそれまでだが、

日本で生まれた自分にとっては信じ難い酷いことも起きているのが世界なら、簡単に基本や当たり前なんて決められないとわたしは思っている。

世界平和が叶うのがいつになるのかわからなくても、感謝の言葉はどこにでも存在する。そのことに気づけただけで少しだけ希望が見えてきたりした。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういう意味も含めて、言葉って奥深いなと思う。

 

大抵のことは思っていることを言葉にしないと伝わりにくいと思うし、

(他の国はどうかわからないし絵やもので伝えてきた文明があることも事実だろうけれど)日本の中世以前の歴史が上流階級の人の生活の史料で大半を占めているのは 文字の普及率が一番の理由だったんだとか。

(って習ったことをすぐ言いたくなっちゃったりして笑)

もちろん絵や図、物のまま伝わったものもあるけれど、やっぱり信憑性も踏まえて、一番伝わる力が強かったツールは文字ということらしいです!

 

 

 

 

 

ところで

先程は言葉や文化の数だけそれぞれに由来があるというようなことを書いた。

そんな中、方言や民族の言葉などを話す人が減ってきているそうで、最近では保護し、かつ、話者を増やす取り組みをしているらしい。

この活動をしてこられた背景にはきっと、言葉をまもることで言葉以上のものもまもりたいと思う人が動いてくれていたのかもしれないと思った。

(※調べたわけではないのでわからないですが。)

 

 

 

大袈裟かもしれないけれど

感謝も出来事も、言いたいことも、

言葉や文字にできるときに伝えないといけないなあなんて思ったり。

 

 

自分のペースでいいけれど。

こんなふうに、ゆっくり気ままに、本当に言いたいことをこうしてここで誰かに伝えていけたらいいなと思っているのが、実は私の密かな野望だったりもするかもしれない。

 

 

ということで

今回も読んでくれて、ありがとうございます

 

りあんわーるどでした。

 

記憶のかたち

 

私は昔から言葉にするのが苦手なようだ。


口数も少なくて、自分の言葉で思ったことを上手く言えなくて、小さい頃はよく友達と叩き合いのケンカをしていた。
図とか想像とかで自分の理想はできているのに、言葉で上手に伝えられなかった。いま思えばもがいていたんだと思う。

思い返せばこの時から音と文章に強くなかったんだろうなと思う
今日はそんな、自分にとってとても大きな発見をしてしまった。

 


3歳差の妹と思い出話をしているときによく思うんだけど、自分は映像で記憶に残っていることが、妹には言葉ではっきり残っているみたい。

妹はたとえば、
あの時誰々はすごく嬉しそうに○○○って言ってたんだよ、とか
○○○って言ったら誰々は○○○って言ったの、とか

セリフの中に感情の記憶がものすごく込められているの。

私の語彙力じゃ説明できないくらい、言葉の記憶とそのセリフに込められた感情が強くてさ。

 

私はたとえば、
文として完璧にできたと思った結論やフレーズも、5分も経てばどの言葉をチョイスしたか忘れちゃうの。

 

私はたとえば、
その時にどんな表情していたよとか、
あんなふうに足を痛めながらも頑張ってたよねとか、
あの道を超えるとあんな絶景が待ってたんだよねとか、
あの登り坂で急に誰々が走り出してポーズとってたなとか、
あの場所に行った日はすごく日差しが強くてカラッとしていて水平線がよく見えたなとか、
あの部屋の壁紙はこんなだったなとか、
なんかこう、視覚的なんだよね。

 

同じ時間を共有した相手に、それを思い出として話しても、あんまり覚えてなさそうなことがいままで何度もあった。
それで、たぶん自分は人より少しだけ視覚的な記憶は強い方なのかもしれないと思うようになった。


どの記憶の持ち方がいいとか決めるつもりもないし順番なんてないと思うけど、同じ時間を過ごした相手と思い出の”しまい方”が違うって、なんだか不思議だと思いませんか?

 

 

キラキラした海と楽しそうな笑顔、ふとした時に見せる癒された顔、くたくたになりながら歩いた坂道。
そんな光景が、ふとした時に匂いと一緒に蘇ってくる時がある。

私が観るその記憶の映像には、声のトーンや音とか、セリフとかはもう殆ど残っていないし、
そんなに爆笑していたのはなぜだったかも思い出せない

 

それでも私は
どんなに小さい時の楽しかったことも、
悲しかったことも、
上手く言葉にできなかった不甲斐なさも、
なんとなく視覚的に、いつまでも覚えている

 

こればかりは、他の人と比べることはどうしても無理だから、主観でしかないけれど

自分はやっぱり、映像の記憶が人より少し強いタイプなんだろうなと思ったりしている。

 

 

あの時、自分と同じ時を共有してくれた誰かは、あの時をどんなかたちで記憶しているのかな。
なんて。そもそも覚えているかどうかもわからないようなことに、いちいち考えたりなんかしてしまって。

 

 

それと、この文章を書いている時も、文を書くのは本当に難しいと思っている。

出来ることなら図と頭の中のイメージをそのまま記録してくれるノートとかがあれば便利なのにだとか訳のわからないことを思いながら、実は書いています。
もしいま、この文章を保存し忘れて消してしまったら、1000字強の文章ですらも、同じようなことは二度と書けないと思う。

 

まぁ、だからこそ、いまこの瞬間に思ったことくらいはここに記録しようと思い、気が向いた日は日記を書いてみたりしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても、

他の人の記憶のしまい方が気になるなぁ。

 

 

 

 

 

おーわーりーます!

 

りあんわーるど日記でした。

じぶん法則(過激かも)

 

誰かと遊んだ後の帰りの電車や帰り道って何を考えますか?


もちろんその日によって行った場所や時間も充実度も違うけれど、
一番の決め手は、遊んだ相手によって
帰りに一人で考えることは違うんじゃないかな。

 

まず遊んだ人のこと自体を考えるか考えないか。

 

で、考えるならよかったことか悪かったことか。

 

相手のことか、自分の振る舞いか。

 

 


どれもはっきりと、どちらかに決まるわけではないと思う


だけどどちらが多かったかで遊んだ相手に抱いた感情の大抵の部分がわかるような気がしている。

 

それは私が、"相手は自分にとってどんなふうに影響する存在なんだろう"とあれこれ考えるからということもあるかもしれない。

私は帰り道の一人の時のいわゆる後味というものが一番、自分が相手へ抱いている感情をそのまま表していると思う


遊んでいるときは楽しいはずなのに、自分自身の感情をタイムリーで判断することがあまり得意ではないみたいなんだ。

別の記事で書くつもりですが、これには持っている気質が関係しているらしい。

 

 

だからこそそんな人には帰り道が決め手なんだ。


誰でもそうかもしれないけれど、帰り道の気持ちがとても楽しかったら、また遊びたいと思うはず。

 

そんなことに気づけたことは良い発見だ。

もしくは日記に残すことも大事かもしれない。

人の気持ちは変わりやすいし忘れやすいし、上書き保存だと思うから。

 

逆に、どこか後ろめたいと思ってしまうような人付き合いは減っていくんじゃないかな。


こうして、自分の性質を少しずつ分析して理解していくことはおもしろい。

 

 


こんなときにこう思ったら、○○な率が高い!とか、
こんなときにこう言われたら、☆☆なことが多い!とか

ある程度、感覚や自分の法則を見つけていくことっておもしろい。

もしかすると、そうやって傾向を見つけていく人は多いかもしれないですよね。

 

 

ちなみに自分にとって、
これでいう前者は例えばいまの帰り道の話。

後者は例えば、
初対面か合って数日ほどで、いい子だねと言われたら騙したり利用しようと企まれていることが多い!です。笑

これに気付いておくことで、一見褒められたようでも警戒心を持つことができる。

 

世界はいい人ばかりではないようでしたので。

 

どちらもあくまで私の話です。

 


外れることもあるだろうけど、当たると面白いので、その人に騙されてどんなに笑えないと思っても、一つ笑える要素がここに残っていることがありますね!

 

なんて。訳わからないね🤷🏻‍♀️

最後にふざけたね。おしまい。

 

りあんわーるど日記でした。